多摩川中流域

多摩川決壊の碑と宿河原堰堤



多摩川決壊の碑

 和泉多摩川の土手道を降り、宿河原の堰堤の方に歩いていくと、河川敷公園の一角に円形のサークルとその中央に何か三角のものがあるのに気がついた。

多摩川決壊の碑

 何だろう・・・

 近づいてみてみると、「多摩川決壊の碑」と書いてある。

多摩川決壊の碑

 そう、この付近は30年ほど前、大雨のあと多摩川の濁流で土手が大きくえぐられ、住宅が数軒流された場所なのだ。

多摩川決壊付近

 多摩川の濁流は行く手を堰堤で遮られ、横の土手を大きくえぐってこの災害になった。
その記憶を風化させないための碑。

 三角の碑の一面には当時の決壊の写真が示されている。

多摩川決壊の写真

 私も当時テレビのニュースでこの災害の様子を見ていた。
濁流は川岸をきれいに半円形に削り、土手の背後の住宅地にせまり、住宅が1軒、また1軒と、傾いては流されていった。

多摩川決壊の碑文

 碑文によると、水害の後、原因となった堰堤を除去し、その40メートル下流に安全性を考慮した新堰堤を作った、とある。


宿河原堰堤

宿河原堰堤

 現在の宿河原堰堤。堰堤の後ろ右側の建物はせせらぎ館。せせらぎ館の右側の土手が低くなっている部分は、二ヶ領用水の取り入れ口。
 宿河原堰堤はこの二ヶ領用水に多摩川の水を取り入れるために作られたものだ。

魚道

 堰堤の左脇には魚道が造られている。

 旧堰堤は爆破で除去したが、その残骸の一部が岸に残っていると本か何かで読んだ記憶がある。それで、旧堰堤の痕跡がどこかに残っていないかと河川敷や岸辺を見て回ったがそれらしいものを見つけることは出来なかった。


災害当時を知る人の話

 たまたま碑の付近で散歩していた地元の方に当時の話を聞くことが出来た。被災地のごく近くに住んでいた人である。

旧堰堤
 堰堤は今の堰堤の40メートルほど上流にあった。多摩川の中央に赤い旗が立っているが、あの辺りを通っていた。
 
災害の原因
 大雨と小河内ダムの放水が重なって大量の出水となった。放水しないとダムが決壊する危険があったからだ。
流れは堰のところで渦を巻き、脇の土手をえぐっていき、家が流されていった。
大雨の1−2日あとなのに土手の高さ八分目ぐらいに達する水位だった。

旧堰堤の除去
 旧堰堤は自衛隊が来て爆破した。被災地から少し離れて住んでいたが、避難命令が出た。
堰の爆破は大変だった。避難先から帰宅してみると、家の屋根は飛び、窓はめちゃめちゃに壊れていた。

新堰堤
 堰堤の高さは以前のものとほぼ同じ。川崎側に流れるようにしてある。
 新堰堤の下流側は川底をさらい、コンクリで固めてある。

下流の泥岩の露出した中州
 下流の中州の風景は以前と同じ。


堰堤の下流側の風景

堰堤下流の泥岩層

 宿河原堰堤の下流には泥岩層の露出した中州が広がっている。
先ほどの地元の人の話ではこの風景は以前も同じだった。

泥岩層の頭

 露出した泥岩層の上流側がきれいにそろっているのが不思議だったが、先の話で納得した。
堰堤の下流側も川底はコンクリで固めたという。そのコンクリの末端が川面すれすれに見えている。
泥岩層の頭はコンクリ工事に会わせてまっすぐにそろえられたのだ。

(2006年12月下旬撮影)




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